「四大財閥以外の11の財閥」はどのように発展していったか

  • 渋沢財閥:資本主義の父・渋沢栄一により創立。設立に関わった企業数は約500社
  • 浅野財閥:石炭の燃えカス「コークス」で財を成す。渋沢栄一に信頼されたことで深川セメント製造所を手にいれる
  • 大倉財閥:大倉喜八郎により設立。「がむしゃらな多角化」で組織を拡大。
  • 古河財閥:古河市兵衛により創立。銅山経営により日本の産銅量の50%を古河財閥が占めた
  • 薩州財閥:川崎正蔵により創立。川崎造船所(現 川崎重工業)を中心に拡大
  • 野村財閥:金融業を中心に発展。当時、画期的だった調査結果の公開により顧客を獲得
  • 日産コンツェルン:鮎川義介が創立。資産家との姻戚関係を駆使して事業を拡大
  • 中島コンツェルン:民間初の「飛行機研究所」を立ち上げる。飛行機の軍事利用で飛ぶように売れた
  • 理研コンツェルン
  • 日窒コンツェルン
  • 日曹コンツェルン

四大財閥(三菱・住友・三井・安田)以外の財閥がどの様に発展したのか、その他の財閥についてまとめていきます。

渋沢財閥:資本主義の父・渋沢栄一により創立。設立に関わった企業数は約500社

渋沢財閥は、資本主義の父・渋沢栄一(1840~1931年)により創設された財閥です。

渋沢栄一は埼玉県の豪農の子供として生まれ、のちに幕末最後の将軍「徳川慶喜」のもとで幕臣をしていました。

大政奉還がおこなわれると、徳川家は駿河藩(静岡県)の藩主となります。

徳川家に仕えていた渋沢栄一も静岡県に滞在。そこで「商工会所」という半官半民の企業を設立し、大儲けします。

その功績が明治政府に認められたことで、大蔵省の有力者・井上馨の補佐として働くことになりました。

その後、日本初の銀行である「第一国立銀行」(現 みずほ銀行)を設立。

その他にも、東京株式取引所(現 東京証券取引所)や横浜正金銀行(現 三菱UFJ銀行)や日本鉄道会社(JR東日本)などを設立しており、生涯にかかわった企業は約500社にものぼると言われています。

 

渋沢は設立した企業が軌道に乗ると事業を売却し、売却益で新しい企業を設立していったそうです。

設立した企業を渋沢家の閉鎖的な所有下におかなかったことから、「財閥」と呼べるかはきわどいものの、多くの企業の設立に寄与しました。

浅野財閥:石炭の燃えカス「コークス」で財を成す。渋沢栄一に信頼されたことで深川セメント製造所を手にいれる

浅野財閥は、富山出身の実業家である浅野総一郎(1848~1930年)により創設され、現在のJFEスチールなどの源流をもつ財閥です。

浅野総一郎は富山県の医者の子供として生まれるも、その後15歳で事業を興します。

しかし事業は失敗し、1871年に夜逃げ同然で上京。

水に砂糖を混ぜたものを販売する「水売り」で食いつなぎ、やがて薪炭・石炭などを販売するようになりました。

ある時、石炭の燃えカスである「コークス」が燃料になることを知り、深川セメント(太平洋セメント)製造所にセメント製造の燃料として販売したことで大きな利益を得ます。

その後、石炭の販売を抄紙製紙(のちの王子製紙)におこなうようになりました。

抄紙製紙は渋沢栄一により創業された企業ですから、総一郎の働きぶりを聞き、面会することになったそうです。

そこで渋沢からの信頼を勝ち取ったおかげで、明治政府による深川セメント製造所の払い下げを受け取ることができました。

大倉財閥:大倉喜八郎により設立。「がむしゃらな多角化」で組織を拡大。

大倉財閥は、大倉喜八郎(1837~1928年)によって創設された財閥で、ホテルオークラや大成建設などが現在もある企業として知られています。

1844年、両親を早めに失った大倉喜八郎は江戸の鰹節店で下働きを始め、のちに乾物商人として独立します。

1865年に鉄砲商に転身すると、戊辰戦争で主に官軍に鉄砲を販売することで大儲けしました。

その後、台湾出兵や日清戦争の時期に物資輸送により、さらなる利益を獲得。

東京電燈(現 東京電力)や帝国ホテル、大日本麦酒(現 アサヒビール・サッポロビール)など多様な事業にも出資しており、「がむしゃらな多角化」が大倉財閥の特徴と言われています。

古河財閥:古河市兵衛により創立。銅山経営により日本の産銅量の50%を古河財閥が占めた

古河財閥は京都出身の古河市兵衛(1832~1903年)によって創立されました。

現在も残る古河財閥の企業としては、富士通や日本ゼオンなどがあります。

創業者の古河市兵衛は、渋沢栄一が創立した第一国立銀行が潰れかけた時に、ポケットマネーを投じて助けました。

その時の縁により渋沢栄一の信頼をだい獲得。1875年には、渋沢の支援もあり新潟県や長野県の銅山経営を手がけるようになります。

1877年、栃木県の足尾銅山を買収し銅山開発を進めた結果、全国一の銅山へと押し上げます。

足尾銅山以外の銅山にも設備投資をおこななった結果、日本の産銅量の50%を古河財閥が占めることになりました。

三代目・古河虎之助の時代に、銅線製造→電気機器製造→通信機器製造→銅線の被膜ゴム製造と芋づる式に事業を多角化していきました。

その過程の中で、1923年に富士電機(現 富士電機HD・富士通)をドイツのジーメンス社と合弁で設立しています。

富士電機は、古河の「フ」とジーメンスの「ジ」をとって命名されたことで有名です。

薩州財閥:川崎正蔵により創立。川崎造船所(現 川崎重工業)を中心に拡大

川崎造船所(現 川崎重工業)を中心に成長した薩州財閥は、薩摩出身(鹿児島県)の川崎正蔵(1837~1912)により設立されました。

早めに父を亡くした川崎正蔵は、長崎に赴いて貿易商を始め、明治維新の頃には大阪を拠点とする貿易商となっていました。

1878年、正蔵は砂糖貿易で手に入れた利益をきっかけに、神戸に川崎兵庫造船所を開設。

1887年には、砂糖貿易から手を引き造船所の経営に一点集中、順調な発展を遂げ、株式会社化していきました。

その後、時の総理大臣・松方正蔵の子供である松方幸次郎(1865~1950年)が正蔵から川崎造船所を受け継ぎます。

第一次世界大戦の造船ブームの波に乗ったことで巨万の富を築きいていきました。

野村財閥:金融業を中心に発展。当時、画期的だった調査結果の公開により顧客を獲得

野村財閥は、大正期に大阪の実業家であった野村徳七によって創設され、金融業を中心に発展していきました。

野村徳七(1850~1907年)は大阪の両替商を営んでいました。

その後、2代目野村徳七(1878~1945年)が、大阪で公債株式現物問屋となる「野村徳徳七商店(現 野村証券)」を1903年に開業。

徳七によると、当時の株式売買は「投機的なものかつ非科学的なものであったとのこと。

そこで、徳七は店内に調査の専門部署を設けて、市況や企業情報を「大阪野村商報」として顧客に公開したそうです。

調査結果を投資家に公開することは当時としては画期的だったようで、多くの顧客を獲得することになります。

その後、情報収集能力と分析力を駆使して日露戦争前後の狂乱相場を巧みに切り抜けたことで財を築きました。

日産コンツェルン:鮎川義介が創立。資産家との姻戚関係を駆使して事業を拡大

日産コンツェルンは山口県出身の実業家・鮎川義介(1880~1967年)によって創立されました。

日中戦争前後に企業集団を形成した「財閥」と区別する意味で、満州事変以降に企業集団を形成した財閥は「新興財閥」「コンツェルン」と呼ばれます。

鮎川義介は東京帝国大学機械工学科を卒業後、工学士の肩書きを隠して「芝浦製作所(現 東芝)」に一般工として入社します。

というのも、将来独立することを考えていた義介は、まずは現場を知る必要があると考えていたそうです。

その後、渡米して新技術を身につけたあと、1910年に戸畑鋳物(現 日産自動車)を設立しました。

義介の母方の叔父は、明治の元勲・井上馨。井上馨は経済界への影響力を持つ人物でした。

また、鮎川家は地方の資産家と姻戚関係にあることが多く、鮎川はこれら姻戚の事業を買収して日産コンツェルンに組みいれることで組織を拡大していきました。

中島コンツェルン:民間初の「飛行機研究所」を立ち上げる。飛行機の軍事利用で飛ぶように売れた

中島財閥とは、中島知久平(1884~1949年)によって創設された財閥で、航空機製造によって地位を築きあげました。

中島知久平は、もともと海軍に在籍しており、その時に飛行機に出会いました。

飛行機の将来性に注目した中島が、飛行機の重要性を力説したため、海軍は中島に航空研究をさせ、航空術の研究員として渡米させていました。

1917年に、中島は海軍を除隊し、日本初の民間による「飛行機研究所」を設立。

1920年以降、航空機の軍事利用が本格的に検討されたため、海軍と陸軍から注文が殺到したそうです。

これを受けて、航空機研究に力を入れたことにより、当時世界最強と言われたフランスの戦闘機の国産化に成功(1923年)してしまいます。

陸軍がこれを実用戦闘機として制定したため合計608機を納入し、財を築き上げました。

理研・日窒・日曹コンツェルン

最後にまとめて紹介するのは、理研コンツェルン・日窒コンツェルン・日曹コンツェルンです。

理研コンツェルン

理研コンツェルンは、理化学研究所の再建を契機に形成された財閥のことを指します。

ちなみに、理化学研究所を設立したのも渋沢栄一です。

1921年、研究者が優れた成果を発揮できるように「研究室制度」を導入されました。

日窒コンツェルン

三菱財閥の大阪商船支援のもと、野口遵に設立された「日本窒素肥料」を中核とした財閥が日窒コンツェルンです。

日窒コンツェルンは、日本初の石炭窒素である硫酸アンモニウムの製造に成功し、第一次世界大戦期に財を成します。

その後、合成アンモニアや人造の絹糸の事業化(現 旭化成)に成功しています。

日曹コンツェルン

日曹コンツェルンは、中野友礼が設立した「日本曹達(ソーダ)株式会社」を中核企業とした財閥です。

九州曹達や日曹人絹パルプ、日曹鉱業などを傘下にしていたため、原料が製品に、製品が原料になる「リング式経営」で拡大していきました。

 

 

参考資料

『財閥の日本史』

『日本の15大財閥』

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